直利庵

直利庵の想い

歴史の上に胡坐をかくのではなく、
常に進化、そして、深化。
どこまでもおそばにこだわります。

始まりは[力]の屋号。そして、「直利庵」へ。

始まりは[力]の屋号。そして、「直利庵」へ。 始まりは[力]の屋号。そして、「直利庵」へ

[力](かくか)

直利庵の正しい創業年については、現存する古文書によると。
蕎麦屋としての始まりは江戸時代の嘉永3年以前と言われています。のちに「かくか」という屋号を名乗り始め、そして、「直利庵(なおりあん)」へと変わっていきました。現在は、「直利庵(ちょくりあん)」という読み方ですが、その呼び名には時代背景も大きく影響しています。盛岡のある北東の一帯は鉱脈が多くある地域。大きな鉱脈に当たることを「大直利(おおなおり)」と呼んでいたそうです。その縁起のよい言葉にあやかり、私たちも「直利庵(なおりあん)」と名乗り始めました。

当時のお店は八幡町にありましたが、この界隈は旦那衆が夜な夜な集まる社交場と言った雰囲気。お酒を出していたこともあり、華やかな盛岡藝妓の三味線の音が夜遅くまで響いていました。口の肥えた旦那衆の注文に応えていく中で、私たちの蕎麦の味は磨かれ、そして、評判が広がるとともに、多くの方が訪れるお店へと成長していきました。ご贔屓にしていただくお客様から愛称として「直利庵(ちょくりあん)」と呼ばれていましたが、いつしか、それが正式な店名になりました。

町に愛され、人に育てられてきた。

町に愛され、人に育てられてきた。 町に愛され、人に育てられてきた。

昭和20年代の直利庵。今と変わらず、2階の座敷からは三味線の音色が響き、笑い声が途絶えない。そんなにぎやかさがありました。直利庵は、盛岡の人に愛され、そして、いつしか町の風景の一部となりました。現在でも、中ノ橋界隈のお祭り行列は、福を振る舞い、福を届けるため、直利庵の前が休憩所となることが恒例となっています。

当時はお店で食べるお蕎麦はもちろん、時には注文を受けたお客様の家にお蕎麦を届けることも少なくありませんでした。岩手には古くから伝わる「そば振る舞い」という慣習があります。蕎麦はお店に注文するのですが、薬味については、迎え入れる家人が手間暇かけて作ります。そして、それが家々の個性ともなっていました。家を訪れた人を、湯気の立つ温かい蕎麦でもてなす。これこそが、「わんこそば」の元々の姿でした。

面白いと思ったら、すぐに作ってみる。

面白いと思ったら、すぐに作ってみる。 面白いと思ったら、すぐに作ってみる。

「野菜そば」というメニューが直利庵にはあります。これはもうすでに30年以上も販売されている人気メニューです。玉ネギ、にんじん、ピーマンが入ったこのそばは、発売当時は邪道と言われました。老舗が出すメニューではないと。その声は聞こえていましたが、何よりもお客様がおいしいと支持してくださった。また「酒そば」は、勝海舟の父子のことを書いた小説「父子鷹」にも登場するそばの食べ方。試してみたら、本当においしい。これも直利庵の人気メニューになりました。おいしく食べていただくために、「酒そば」専用の器でお出ししています。

「これって、おもしろい」と思ったら、何でも試してみる。蕎麦屋はこうあらねばという固定観念にとらわれることなく、「遊び心」を大事にしたメニューづくりをしています。
 ちなみに先々代店主が生み出した「ホームラン印」というメニューがありました。大変な人気商品だったそうで復刻を考えたのですが、レシピも消失しており、その味を再現することができません。以前、広告を出して、食べたことのある人を探したのですが名乗り出る方はいらっしゃいませんでした。この「ホームラン印」というそばは、私たちにとっても幻のメニューになっています。

おいしさにこだわる。それは蕎麦だけではありません。

おいしさにこだわる。それは蕎麦だけではありません。 おいしさにこだわる。それは蕎麦だけではありません。

そば粉は岩手県産を使用。地元で生まれ育ったものにこだわっています。鰹節は老舗問屋から仕入れています。1年分を確保してもらい、味が変わらないように、注文のたびに削りたてのものを送ってもらっています。

それだけではなく、昆布は北海道、一味唐辛子は京都、海苔は九州。その味を自分たちで確かめ、そして、そばの味をさらに引き立ててくれるものを選んでいます。

そばをおいしくするのは、地元盛岡の水。

店舗敷地内に井戸を掘り、そこから汲み上げた地下水を使っています。盛岡で食べるそばは、やはり盛岡の水を使うのがいちばんおいしい。
だからこそ、毎日水を汲み上げ、その水をそばづくりに生かしていく。直利庵創業時から守り続けている伝統です。